指揮:ニコラウス・アーノンクール
モーツァルト: 交響曲第39番変ホ長調K543 交響曲第40番ト短調K550 交響曲第41番ハ長調K551「ジュピター」 <主な演奏者> Fl 1:フルーリー Ob 1:ヘルト(40) ガブリエル(41) 2:エールベルガー Cl 1:シュミードル(39) ヒントラー(40) 2:ヴィーザー Fg 1:ヴェルバ(39、40) トゥルノフスキー(41) 2:エールベルガー Hrn 1:ヘグナー(39) ヤネシッツ(40、41) 2:マイヤー(39、40) リントナー(41) Trp 1:エダー(39) シュー(41) 2:アンブロス Timp ミッターマイヤー(39) アルトマン(41) 1Vn キュッヒル、シュトイデ 2Vn リッシー、コヴァチ Va コル、ランデラー Vc バルトロメイ、ドレシャル Cb マイヤー、ギュルトラー(39、41)、マチネグ(40) 誠に面白かった。 誤解を受けること覚悟で敢えて申せば、3曲とも実に「けったいな音楽」なのだ、ということを認識。 アーノンクールが作るモーツァルトは、耳に馴染みの良い、流れるような、そして心安まるような... ものではない。非常に激しく、時に極めて攻撃的である。 しかし、それは、耳に馴染み、頭の中に楽曲のイメージが出来上がってしまっているこの「三大交響曲」に、新たな光を当てるものでもある。 中でも、個人的に強い衝撃を受けたのが40番。 もの悲しくも美しい、という、この曲に抱きがちなイメージを払拭する、実に激しい音楽。 プログラム冊子の楽曲解説(オットー・ビーバ)に、「"疾風怒濤交響曲"の類型にあてはまるもの」との記述があるが、この日の演奏はまさにそれを具現化。 この曲を"モダンオケ"がやるに際して、あれほどホルンに強奏を求めたという例はないのでは。 とにかく、これまでの「40番」に対するイメージや曲のとらえ方を一新させられる、それほどのインパクトある演奏。恐れ入った。 39番は、川崎での演奏よりも遙かに集束感のある、安心して聴けるサウンドとアンサンブルになっていたことに、まずは安堵と喜び。 しかし、これもまたけったいな音楽であった。 この曲でのキーワードは「応答」であろうか。 はじめに提示されたフレーズに対して、お返しのフレーズがある。なんらかのメロディーに対して合いの手が入る。こういった応答の数々が、実に際立って、かつ雄弁に聞こえてくる。 全体的に「厳しい」音楽作りの中、メヌエット楽章におけるトリオなどは、軽快さと優美さを併せ持った柔らかな音楽になっている(シュミードル御大の絶品ソロ!シュミ氏「してやったり」とニッコリ>笑)。 しかしこれもまた、前後に登場する激しい3拍子との応答でもある。 とまぁ、応答・対話の仕掛けに事欠かない演奏。同じ「仕掛け満載」でも、先月聴いたハーディングのそれは、理屈先行で「音楽」になりきっていない部分も多々あった(と感じた)。 が、アーノンクールのそれは、見事に「音楽」に昇華している>その是非はあるにしても。 年期の差と言ってしまえばそれまでだが、あらゆる意味で「格の違い」を見せつける結果に。 「ジュピター」は、先般のブルックナー5番同様の「人間賛歌」だったように思う。 タイトルからも明らかなように、宇宙的なスケールとか、あるいは神々しさとかを想起させられる楽曲、というのが通説だが、アーノンクールによる演奏は、実に人間的。 4楽章のフーガなど、畳み掛けるように音を重ね、一気呵成に突き進む。音楽の構造を透かして見せるのではなく、重層的な構造を利用して人間の熱い感情を表現、そして最後まで登り詰めたところで解放される、といった趣。 人間の喜怒哀楽がひとつの楽曲の中に凝縮されているようで、なるほど、この曲に対してそういう見方があるのか、ということを気付かせてくれた。 手垢にまみれたように見える「三大交響曲」。 しかし、楽譜に対する見方、音符の解釈の仕方如何で、これほどまでに新鮮かつ斬新な音楽になって我々の前に現われてくるのだ。 好き嫌い、解釈の内容に対する是非は、それはあるでしょう。 でも、こういう説得力のある音楽を前にすれば、それはそれ、と割り切ることも容易なのでは。 ウィーンフィル来日公演でこういう刺激的なモーツァルト演奏を聴けたということに感謝。
by wph2006
| 2006-11-11 13:11
|
ファン申請 |
||